“分からない〟の自覚が理解の出発点となる「存在の無視」が語れなさにつながるもらうようになりました。協力してくれる人もいましたが、中には“大学院に所属している〟人間が土足で踏み込んできて、「自分たちをモルモット扱いするのか?」と警戒する人も少なくありませんでした。進学当初は博士課程に進むつもりはなかったのですが、「このまま自分だけ業績をもらって現場を立ち去るのはあまりにも無責任だ」と思い、研究を続けていくことを決めました。 「ひきこもり」の人たちが社会に復帰するとは、どういうことをいうのでしょうか。彼らに話を聴くなかで「社会復帰=回復なのか?」という疑問も浮かんできて、早々にそのような捉え方自体がそぐわないことに気づきました。〝ひきこもりは社会からの逸脱だから、元の道に戻りましょう〟というのが一般的な回復の意味するところと思われがちですが、〝こうしていれば、こんな人生だったはず〟は、その時点ですでに可能性にしか過ぎず、周囲からは元の道に戻ったように見えても、それは最初にあるはずだった道とは別の道です。つまり道を外れたのではなく、枝分かれした道を歩んでいるということなのですから、回復という枠組みそのものが使えません。生活するのが当然〟という認識があり、その価値観からみると、ひきこもりは許しがたい悪事になってしまいます。そのためひきこもり支援というと就労支援ばかりが重視され、もっと広い意味で“どう生きていけばいいのか?〟という当事者からの問いには応えていませんでした。や考えを知りたい、少しでも助けになりたいと必死な思いでいるはずです。問題は当事者の声が“正しく聴き届けられていない〟“自分の声が理解された〟という実感を当事者たちが持てないでいることにあると整理できます。感し、彼らを理解しようとする一方で、「こんなに元気なのに、なぜ働けないんだろう?」というモヤモヤやもどかしささらに一般的には“働いてお金を稼いでしかしながら支援者は当事者の悩み研究を始めた当初の私は当事者に共を感じつつ、研究者としてはその感情は隠さなければならない矛盾を抱えていました。悩み、考え抜き、ネガティブな自分の感情を素直に認めることができたとき、そのような感情を抱いてしまうのは、彼らの理解し難さに結びついているということが初めて見えてきたのです。共感をいったん諦め、彼らの話をそのまま受け止めて“分からないことが分かったとき〟が出発点になるのだと思います。自分の声が“正しく聞き届けられていない〟ことについて、当事者はどのように感じているのでしょうか。近年は当事者自身が表舞台に立って発信する活動が盛んになっているのですが、ある集まりで「誰に対して発信しているのか」という問いについて意見交換が行われたとき、その場にいた皆さんは「過去の自分に向けて発信している」と答えたそうです。自分のことをうまく語れないために理解を得られず、冷たく扱われてきたことへの悔しさや悲しさ、自分への不甲斐なさが当事者発信の根底にあるのだと思います。“声が聞き届けられないこと〟は、自分が生きてきた時間や、自分の存在そのものを無視されているという苦悩にまでつながってしまうのです。当事者が自分の経験や思いについて確信を持って語れるようになるには、周囲の“聴く耳〟が育つのを待たなければいけないのです。軽々しく「あなたの辛さや苦しさは分かる」などとは言えませんが、「自分は生きていてはいけないのではないか」と思いながら生きていくのはあまりにも悲しく、また生きることはそんなに過酷であってはならないと思います。「ひきこもり」に限らず、どんな支援においても“当事者の頭を飛び越えないこと〟がもっとも重要です。「ひきこもり」の研究を通じ、共感を振りかざすことの危うさ、特定の価値観で人間をジャッジすることのおかしさに気付きました。これからも多くの人をひきこもらせるような世の中のあり方に対して、問題提起をしていきたいと思っています。支援者はまず当事者の「語れなさ」と支援者はまず当事者の「語れなさ」と向き合う(=聴く)必要がある向き合う(=聴く)必要がある学術研究2021年11月、ひきこもるという経験と回復の定義を明らかにしようとする『「ひきこもり」から考える―〈聴く〉から始める支援論』を発刊(中央)。ほか、著書・共著あり。CREATION NO.213 6 語れないことを苦悩している語っても自分以外の誰かに、勝手に語られてしまう「語る」ことと周囲の認識が嚙み合わないなぜ「聴く」ことが大切なのかひきこもり当事者は自分で「自分」について
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